翻訳と辞書
Words near each other
・ フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)
・ フリードリヒ2世 (ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公)
・ フリードリヒ2世 (ニュルンベルク城伯)
・ フリードリヒ2世 (バーデン大公)
・ フリードリヒ2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)
・ フリードリヒ2世 (ブランデンブルク選帝侯)
・ フリードリヒ2世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)
・ フリードリヒ2世 (プファルツ選帝侯)
・ フリードリヒ2世 (プロイセン王)
・ フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)
フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯)
・ フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)
・ フリードリヒ2世オイゲン (ヴュルテンベルク公)
・ フリードリヒ3世
・ フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)
・ フリードリヒ3世 (ドイツ王)
・ フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)
・ フリードリヒ3世 (ニュルンベルク城伯)
・ フリードリヒ3世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)
・ フリードリヒ3世 (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯) : ウィキペディア日本語版
フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯)[ふりーどりひ2せい]
フリードリヒ2世Friedrich II. 1310年11月30日 - 1349年11月18日ゴータ)は、マイセン辺境伯(在位:1323年 - 1349年)、テューリンゲン方伯(在位:同)。深刻伯der Ernsthafte)、痩身伯der Magere)とも呼ばれる。フリードリヒ1世とエリーザベト・フォン・アルンスハウクの子。
1323年に亡くなった父の後継者としてマイセン辺境伯とテューリンゲン方伯を母の後見の下で単独相続した。1329年の成人後は、家臣や親近者らと共に長年にわたりヴァイマール=オーラミュンデ伯やシュヴァルツブルク伯との戦い(テューリンゲン伯戦争)を展開した。
バイエルン公でもあった舅の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の死後、義弟のバイエルン公ルートヴィヒ5世らバイエルン派はドイツ王への推戴を示唆するが、フリードリヒ2世はその煮え切らない提案に不信感を覚えてこれを拒絶し、ルクセンブルク家カール4世に利する結果となった。フリードリヒ2世は領主権を強化し、カール4世はこれに危機感を募らせた。1348年の会談で両者は互いの領土資産を承認しあった。翌1349年11月18日にヴァルトブルクで亡くなった。
== 子女 ==
1328年ニュルンベルクで結婚したルートヴィヒ4世の娘マティルデ(1309年 - 1346年)との間には、以下の9人の子供が生まれた。
* エリーザベト(1329年11月22日 - 1375年4月21日) - ニュルンベルク城伯フリードリヒ5世と結婚。
* フリードリヒ(1330年
* フリードリヒ3世1332年12月14日 - 1381年5月21日) - マイセン辺境伯
* バルタザール1336年12月21日 - 1406年5月18日) - テューリンゲン方伯
* ベアトリクス(1339年9月1日 - 1399年7月15日) - ヴァイセンフェルト修道女として暮らした。
* ルートヴィヒ(1340年2月25日 - 1382年2月17日) - マクデブルク大司教
* ヴィルヘルム1世1343年12月19日 - 1407年2月9日) - マイセン辺境伯
* アンネ(1345年8月7日 - 1363年3月22日) - ゾイスリッツで修道女として暮らした。
* クララ(1345年8月7日 - ?)




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.